2007年10月、北中城村の中村家住宅(国指定重要文化財)とその周辺で開催された「染織のための自然素材展」で、
芭蕉布の荢績みや宮古上布のブー績みを見せてもらった。績(う)みとは、繊維をつないで糸にする工程のこと。
特に宮古のブー績みは魔法のようで、教えてもらってもすぐには理解できなかった。
オタオタしている私の手から「貸しなさい」と言って繊維を取り、鮮やかに績んで見せたのは宮古島出身の義妹のお母さん。
「宮古の人はみんなできるのよ~」って、カッコ良すぎた。
それから7年半もご無沙汰してしまった沖縄。久しぶりの旅の目的の一つは、
喜如嘉で芭蕉布を織る平山ふさえさんと、南風原の織元、丸正織物の大城幸司さんをお訪ねし、お話を伺うこと。
伝統芸能や伝統工芸がほかの地域より、よく残されている沖縄県で、
織りの現場がどうなっているのか、垣間見ることができればと思った。
4月15日、那覇に着いて弟の店に荷物を預け、高速バスで2時間弱で名護に到着。
1泊して翌朝、67系統辺土名線のバスで第一喜如嘉へ。
名護の街を抜け、本部半島の付け根を横切ったら、あとはひたすら海岸線を往く。50分のバスの旅はなかなか快適。
第一喜如嘉のバス停で下車し、海を背に集落に通じる道に入っていく。
道の入り口にあった大きな看板。「オクラレルカ? 送られるか?」。
めざす平山ふさえさんのお宅は赤瓦の古民家。笑顔で迎えてくださった。
挨拶を済ませ、さっそく今までの作品の写真や現在手元にあるタペストリー、織り上がったばかりの着尺を見せていただく。
また、ご自身が着用する芭蕉布のきものも見せてくださった。
肌から程よい距離を保って纏われるであろう、そのきものは、蒸し暑い沖縄の日常着であったいにしえを思わせる。
そして、海風をはらみ、陽ざしを透かしてこそ美しいのだと教えてくれる。
芭蕉布は、畑で糸芭蕉を育てるところから、糸作り、織り、仕上げまで、20以上の工程を一人の織り手が行う。
農家の主婦が自分や家族の着るものを自宅で織っていたころの制作工程を今も保っている。
ちなみに、平山さんのきものは最初、東京の和裁士に仕立ててもらったのだが、どうにも着心地が悪かったそう。
沖縄で仕立て直してもらったら、しっくりと体になじんだのだそうだ。
その土地の素材は、その土地の人のほうが扱いに慣れているということの証。
平山さんは、唯一荢績みだけは近所の人にも頼んでいると言う。
ご自身で績むだけでは、制作に間に合わないのだろう。
しかし、それでも1反の着尺を仕上げるまでには6か月、帯なら3か月を要する。
高価な芭蕉布は、織れば売れるというものではない。だから、着尺は注文を受けて織る。
お金持ちではない私のような者にも買えるコースターや名刺入れなど、着尺や帯以外の小物も作っている。
そういう事情から、1年に織れる着尺は1反が精いっぱいなのだそう。
いくら高価と言っても、着尺が織り上がるまでの6カ月は、ほかの収入はないわけだし、
1反売れれば、あとの半年は遊んで暮らせるというほどの額でもない。
国が重要無形文化財と指定しても、個々の作家に対する支援はないはずである。
重要無形文化財保持者(人間国宝)には年額200万円の補助があるが、
対象の伝統工芸に携わっている誰もが保持者に指定されるわけではない。
そんな状況のなか、東京から移住して芭蕉布会館の研修生として10年、独立してから10年と、
合わせて20年も芭蕉布を作り続けている平山さんの勇気と根気には、尊敬の念さえ覚える。
穏かな笑顔の中に強い意志を感じさせる人だ。思えば沖縄には、そんな女性が多いような気がする。
昼ご飯をご一緒したあと、芭蕉布会館に連れて行ってくださった。
玄関わきにたっぷりと活けてあった紫色のアヤメ科の花が
あの集落の入り口の看板にあったオクラレルカだと平山さんが教えてくれる。
会館の1階で平良敏子さんに出会った。平山さんの師匠であり、言わずと知れた人間国宝だ。
大正10年のお生まれなので、うちの父と同い年。
2階へと階段を上る姿は少々頼りないが、定位置らしき椅子に座って荢績みを始めると、
その手の動きは迷いがなく、美しい。
機(はた)結びは目にもとまらぬ速さで、結んでは余分な繊維を切り、どんどん進んでいく。
しばし、見惚れる。
熟練の手わざというのは、どの世界でも美しいものだ。見ているだけで幸せな気持ちになる。
平山さんの強い意志を支えるのは、この美しいものを守り、伝えたいという思いなのではないかと、
那覇に戻るバスの中で勝手に想像していた。
さて、次は南風原を訪ねるのだが、その話はまた後ほど。
文・写真 八谷浩美
12 May 2015
|