では、日本産更紗の誕生について、もう少し詳しく見ていきましょう。
南蛮貿易で日本に入ってきたインド更紗は大名や茶人、富裕な商人たちにとって憧れの品でした。
ましてや、庶民には高価すぎて、とても手の届かぬもの。
そこで、インド更紗を模倣するところから、日本の更紗作りが始まります。
主に、日本の中で手に入る顔料や木綿を使い、型紙を用いた捺染技法の更紗染めを考案しました。
この日本産の更紗を「和更紗」と呼びます。
天保8年(1837)から嘉永6年(1853)に亘って出版された『守貞漫稿・第19巻』(画像1)に
「和更紗」の文字が初めて記されています。
「また和更紗と云いて、皇国製の一面小紋および風呂敷地の囲いある物も、
皇国にて模造の物には、従来これを染むといへども、はなはだ美ならず、
近年やうやくに美なりといへども、いかんぞ彼に及ばん」
インドから渡ってきた更紗とは別の物であり、まだまだ未熟な点が多いことが解ります。
また、『守貞漫稿・第19巻』が書かれる以前から、「和更紗」とは明記されていないものの、
これに類する物が染められ始めていました。
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画像1(クリックで拡大) 出典:国立国会図書館
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和更紗の主な産地は京都、堺、長崎、鍋島でした。
古くは鍋島藩の保護の下、慶長3年(1598)に鍋島更紗が始められたという記録があります。
(しかし、当初の鍋島更紗がどのような物であったか判然とせず、
この年号も明確な裏付けはありません)
寛永15年(1638)の自序を持つ松江維舟重頼著『毛吹草』第4巻には諸国の特産品が記されており、
山城畿内の項には「紺染、梅染、茶染、藍染、紗羅染(しゃむろそめ)、蘇芳染」の記載があります。
実体は不明ですが、1600年代には一種の更紗染めに近いものが 山城京都で染められていたと考えられます。
後出の『佐羅紗便覧』には「京都、大坂には書更紗地の有と云う」と書かれています。
元禄3年(1690)刊の『人倫訓蒙図彙』に 「紺屋(画像2)、沙室師・沙羅沙・霜降、茶染師」の記載があります。
宝永5年(1708)『増補華夷通商考』しゃむろ屋の項に、日本とシャム(現在のタイ)との交易があり、
シャム王国で珍重されるインド更紗の技法も学んでいることが書かれています。
シャム向けに制作されたインド更紗が、シャムの日本人町を介して日本に数多く運ばれていました。
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画像2
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正徳2年(1712)の『和漢三才図絵』(画像3)では、 華布の項に「印華布、佐良左、暹羅染」の記載があり、
「按ずるに、華布は即ち西洋布(かなきん)を茜を用いて花文を染む。初め天竺・暹羅より出づ」と
書かれています。
また「本朝多く染め出す者、洗えば即ち華文消へ易きのみ」ともあり、
我が国の更紗は洗うと文様が落ちてしまう、と染め技法の未熟さを認めています。
暹羅染(しゃむろそめ)の技法は明確ではありませんが、
シャム更紗に使う蜜蝋の輸入が厳しい時代であって、蝋防染を行うのは困難でした。
しかし同時期、日本では革に文様を染めるには、型紙と糊を使う糊防染が行われていたので、
その技法を布に応用したと推測できます。
享保18年(1733)刊の『本朝世事綺譚』に江戸の俳人、菊岡沾涼が
暹羅(しゃむろ)染めについて書いています。
「暹羅染 暹羅は国の名(現在のタイ)也。・・・この国より渡りたる染め物を模して、日本にて染める。
又華布(さらさ)と云ふ。中華より渡るを、唐華布と云也。唐ざらさは洗へども文采落ず。
和染は落る也」というような内容のことがあり、
シャム渡りのインド更紗は京都の染め職人を大いに刺激して、
暹羅染めを模して独自の更紗染めに挑戦していた様子がうかがえます。
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画像3
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安永7年(1778)には日本で最初の手描き更紗の技法書である、
蓬莱山人帰橋撰『佐羅紗便覧』(画像4-1、4-2、4-3)が出版されました。
これを原本として、安永10年(1781)には華布師(さらさし)、久須美孫左衛門による『増補華布便覧』が、
そして天明5年(1785)には『更紗図譜』がそれぞれ出版されて、全国に更紗の技法が一気に普及しました。
これらの本の内容は一般向けの「手描き更紗指南書」で、
図柄の見本、色づかい、素材の入手方法や簡単に仕上げる方法、また、古色の付け方まで記されています。
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画像4-1~3(クリックで拡大)
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その後は増補改訂を重ね、彩色もされて、明治時代の末まで次々に出版(画像5-1、5-2)されています。
しかし『佐羅紗便覧』などは生臙脂、藍蝋など友禅染に使用された高級な染料が書かれていて、
現在多く見られる型摺りの和更紗に使われている顔料については記載がありません。
したがってこの指南書は、主に図案の参考として使われ、当時の流行を作り出していったのではないかと思われます。
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画像5-1~2(クリックで拡大)
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また、日本産の和更紗が普及した背景には社会的な事情もありました。
江戸時代、輸入品の支払いは、当時日本で産出した金や銀が当てられていました。
しかし、金銀の流出が徐々に財政を圧迫し始めたこともあり、幕府は輸入品を閉め出すようになります。
こうして、輸入更紗がさらに貴重品となっていったことが、和更紗染めの生産に拍車をかけたと想像できます。
和更紗の技法については次回に紹介します。
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