和更紗の文様に人物文様はあまり多くありません。
しかし、「唐子(からこ)」という子ども文様だけは、かわいさゆえか例外的に多くみられます。
唐子は髪の毛を頭の上や左右で結い、他を剃り落とした髪型で、中国風の衣装を身につけた童子。
日本では中国から伝わった童文様ということで「唐子」と呼びました。
わが国では古くから中国など海外の美術工芸品を輸入していますが、江戸時代にはこれらを総称して「唐物」といって扱っていました。
「唐」を付けることで付加価値が上がったようです。
「唐子文様」は中国では縁起の良い吉祥文様で、正月に各家庭で飾る「年画」にも大切なアイテムとなっています。
さらに、絵画や工芸品では「百子の図」といって、
多くの子どもが遊ぶ図柄が好まれ、描かれた子どもの多さを競った作品に人気がありました。
日本では古くは正倉院宝物のフェルト「花氈(かせん)」の中央に唐子が見られます。
そして、「多子多福」「家族繁栄」の文様として、この可愛らしい唐子文様が好まれ親しまれました。
江戸時代は「子宝」という思いが大変強く、子どもの教育に熱心でした。
寺子屋や手習い所が普及し、世界でも類を見ないほど子どもの識字率が高かったといわれています。
こういった環境があったから、「唐子文様」が多くの人から愛されたのでしょう。
七人唐子、五人唐子、三人唐子の絵柄が特徴の長崎県佐世保の「三川内焼(みかわちやき)」は唐子文様を得意とした焼き物。
「平戸焼」ともいい、磁器の窯を作った平戸藩藩主、松浦鎮信(まつうらつねのぶ)の御用窯でした。
佐世保の近く、長崎で染められていた「長崎更紗」にも唐子文様が頻繁に使われています。
長崎という土地柄から、中国からの文様を先取りしたのでしょう。
唐子の文様は着物や工芸品だけではなく、日光「陽明門」などの建物、京都祇園祭の山車など思わぬ所に隠れています。
どの彫り物も「成長」「発展」「魔除け」などの願いを込めて、子どもたちの教えになるような内容を唐子の彫り物で絵解きしています。
文字が読めなくても、これらの唐子の彫り物を見れば、ごく自然にありがたい教えに興味を持ったことでしょう。
唐子文様には子どもの遊びだけではなく、中国の生活習慣や、
日本での年中行事的なものを唐子に託し、さらに日本的に文様化されているものも多く見られます。
唐子文様は、特に子どもや女性の着物文様として愛用されました。
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天明5年(1785)に出版された、和更紗の指南書『更紗図譜』には
「唐子手」という文様の見本が載っており、
異国情緒のある唐子文様は更紗のなかでも 人気があったことがわかります。
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天仙送子図文様更紗
元図は中国清代、蘇州で作られた蘇州版画といわれる、
正月飾りに使われる「年画」です。
それをそのまま拡大して更紗染めにしたもの。
左下が鳳凰に乗って人間世界に送られる神童。
子どもの出世を願った大変めでたい図柄となっています。
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長崎更紗といわれている風呂敷状の更紗には枠取りがあり、その枠のなかに唐子文様を配しているものが多く見られます。
唐子の遊び風景や、行事的な仕種が表されています。
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蛇踊り囃子方
蛇踊りは江戸時代に長崎唐人屋敷で行われていた正月の行事でした。
後に長崎の諏訪神社の奉納踊りとなったといわれています。
この版画は「長崎版画」といわれている、当時の長崎土産のひとつ。
このような版画を基にした蛇踊り囃子方の文様に 人気があったのでしょう。
また、江戸時代に日本を訪れた「朝鮮通信使」の一行は 文化交流使節であり、日本各地で歓迎されました。
海外との交流が厳しい時代、一般の人たちは この異国の文化には大きな刺激を受けたことでしょう。
なかでも少年たちが踊る「唐子踊り」という民俗舞踊は 広い地域で人気があり、
このことも唐子文様の人気に拍車をかけたのだと思われます。
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和更紗の唐子文様。(手描き更紗)江戸後期から明治
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いずれも、蛇踊り囃子方の版画を参考に考えられた図柄。
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司馬温公の瓶割
温公は中国北宋の政治家。
子どもの頃、貴重な大水瓶に誤って落ちた友人を助けるために、 その水瓶を石で割って助けました。
叱られると思っていましたが、父親は温公を褒めて 「命に勝るものはない」と教えた、という説話文様。
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