今回は文様から少し離れ、今までに何度か登場してきた『佐羅紗便覧』についてのお話です。
  
		『佐羅紗便覧』は安永7年(1778)に出版された、日本で最初の本格的な手描き更紗の指南書です。 
		蓬莱山人帰橋著、江戸と京都に店を持っていた出雲寺和泉掾の刊行。 
		これ以前には『和漢三歳図会』などで和更紗の説明が、わずかに紹介されたことはありましたが、 
		この『佐羅紗便覧』には、自分たちの力で染められるように詳細な説明が書かれています。
  
		当時の染め物の技術は各々の染め所で技術を開発し、一子相伝、門外不出の秘密として守られていました。 
		そんな時代にこのように版元が技術や絵柄見本を、誰もが解るように詳しく解説することは極めてまれなことでした。 
		本の内容は最初に39図の文様見本を載せ、部分部分に、臙脂、黄など色の指示があります。 
		文様は空想上の花々や、鳥獣などで、ほとんどがインド更紗の一部分をトリミングしたものです。 
		なかには日本古来の文様も数点は含まれています。日本からインドに、日本人好みの文様を発注した結果でしょう。
  
		本の後半は描き更紗の技法を説明しています。 
		下地の作り方から始まり、臙脂色、藍、黄、黒などそれぞれの色の作り方が書かれています。 
		なかには、素早く仕上げる方法や、古く見せるにはどのようにしたらよいかなど、古色の付け方まで指南しています。 
		当時から古色に価値観があったのでしょう、全体では46頁の冊子です。
  
		著者、蓬莱山人帰橋は多才な人物でした。 
		洒落本黄表紙の戯作が主な仕事ではありましたが、これだけの本を書くからには、 
		インドなどの「古渡の更紗」を蒐集し、さらには自分でも実際に手描きの更紗を描いていたのではないかと想像でます。
  
		この『佐羅紗便覧』を元本にして、安永10年(1781)には、華布師、久須美孫左衛門が『増補華布便覧』を、 
		そして天明5年(1785)には『更紗図譜』がそれぞれ出版されて、和更紗の生産が具体的に理解されるようになりました。 
		日本全土で需要も一気に増え、文化文政(1800年代)の頃には和更紗の最盛期を迎えたと思われます。
  
		『増補華布便覧』では文様名とともに、その出処地がテウセン(朝鮮)、唐、シャムなどと書かれています。 
		しかし、すぐ後に出版された『更紗図譜』には、それを否定するように、 
		「この古渡り更紗の産地は推量であって、今ここに書き伝えるべきではない」と記されています。 
		事実、韓国では現存している更紗は見られないし、記録も残っていません。 
		中国でも1800年代の古い更紗はほとんど見られません。 
		したがって、『佐羅紗便覧』に掲載されている文様の殆どはインドで考案された更紗文様を元にして描かれたと思われます。
  
		また、これらの更紗の指南書は、全て「描き更紗」の技法のみが書かれています。 
		しかし、現存する和更紗のほとんどが「型染捺染」ばかり。 
		型染めについては何も解説が書かれていない。このことが何を意味するのか不明です。 
		手描き更紗を作ることは、大変手間がかかるのと、良質な木綿が必要になるので、 
		もともと作られたのがとても少なかったと推測ができます。 
		それにしても、江戸期に作られたはずの「手描き更紗」はなぜ残っていないのでしょうか。
  
		これらの指南書は、後に京都や大阪、江戸でも作られ、長期にわたって増補もされています。 
		明治33年刊行の『波難婦久佐(はなふくさ)』では木版多色刷りで豪華な見本帳になっています。 
		こういったことから、和更紗は一部の好事家のものではなく、大きな街を中心にした、 
		一般町民が作りだした新しい「衣文化」といって良いでしょう。 
		一枚の木綿にカラフルな色合いの文様を染めるという、今までにな無かった画期的な染め物が誕生したわけです。
		
 
  
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		『佐羅紗便覧』は、墨1色の図柄見本なので 色の指定が書かれています。
  
		下の2つは、この頁を参考にして作られたと思われる当時の和更紗。 
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		『佐羅紗便覧』抜粋 
		 
 
  
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		左を参考に作られたと思われる和更紗 
		 
 
  
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		『佐羅紗便覧』抜粋 
		 
 
  
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		左を参考に作られたと思われる和更紗 
		 
 
  
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		『波難婦久佐』明治33年に刊行された、上下2冊の豪華見本帳。 
		 
  
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		編者に円山応挙の名前が記されています。応挙も更紗には大変興味があったことでしょう。 
		 
 
  
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		このように、『佐羅紗便覧』を参考にして、和更紗が一気に普及していったと思われます。 
		文化文政、1800年代の初めには京都、堺を中心に和更紗の最盛期を迎えました。 
		その後明治の初めまで、和更紗の需要が多くつづき、技術の発展、文様のレベルの向上がはかられました。 
		しかし、明治の半ばからは機械化や海外からの染料が入ることによって、大量生産が始まり趣が一変してゆきます。
		
  
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