もう何度も書きましたが、
江戸時代の半ば頃から和更紗が、
武士や茶人、町人を中心に急速に普及し始めました。
文化文政時代には、京都の大きな呉服商が
和更紗の「染め見本帳」を作っています。
A4サイズが多く、1冊に200種類以上の
染め見本が貼り込まれているものがほとんどです。
それぞれに番号がふられていて、
お客さんはこの番号で文様を誂えたのでしょう。
目移りしそうな種類の多さです。
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見本帳の表紙には大きな文字で
『更紗帳』『新模様上代』『更紗鏡』などと書かれ、
次の頁には六五番など通し番号が書かれているものもあります。
たぶん同じような染め物や織物の見本帳が
何冊もあったのでしょう。
呉服屋さんの規模がわかります。
どれも鮮やかな色使いで、
当時の人たちの柄の好みや、色の好みがわかります。
同じ型紙を使って色違いの染めをしているものも見かけます。
人気の柄は、型紙は同じでも色合いを変えれば、
文様の雰囲気が大きく変わるので、
そのようにして自分好みの和更紗を注文したのでしょう。
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見本帳は項目ごとに分かれているものもあり、和更紗をさらに細かく分類していたようです。
なかには、現在でいう「中型」の文様や「小紋」を少し大きくしたような柄で、2色染めも入っています。
2色以上を「更紗」といっていたようです。
多くは4~6色、墨版などは2~3版使っているので、型の数だと5~8版で構成されています。
見本帳の柄から判断すると時代の古いほうが、大胆で大柄な文様が多いように思えます。
インド更紗の影響からかと思いますが、エキゾチックな雰囲気がよく出ています。
時代が進むに連れ、柄が細かくなり、色も落ち着いた、穏やかなものになっているようです。
和更紗を求める一般の人たちが馴染みやすいように、文様や色合いが変化したと思われます。
私の個人的な好みからいえば、大胆な構図で少々は派手めのほうが面白いと思いますが、
実用の染めとして、経済性を考えれば細かくて、使い勝手の良さが優先されるのは当然だったのでしょう。
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では、これらの文様は見本としてだけ存在していたのか、どの程度の使用頻度があったのかが気になります。
見本帳にある柄は、すべて型紙を使って紙に染めたものです。
しかし、現在残っている和更紗を見ると、同じ柄の文様が何枚も存在します。
想像ですが、頻度の差こそあれ、ほとんどの柄が布に染められていたと思われます。
また、これらの見本帳を扱っていたのが、どこの街の呉服屋さんなのか知りたいところですが、
ほとんどの見本帳はお店の住所や屋号が書かれていたと思われる箇所が破られています。
見本帳は呉服屋さんにとっては、注文を取るための大切なものだけに厳重に管理されていたはずです。
それが外に流れるということは、何らかのやましい事情があったからでしょう。
残念なことに現在ではどうすることもできません。
推測ですが、京都を中心に、近江地方、浪速地方が多いと思われます。
私が調べた範囲では江戸、長崎で使われた和更紗見本帳は見つかっていません。
いずれこの地域で作られた見本帳が現れるとは思います。
呉服問屋から流れた見本帳の多くは大正から昭和にかけて大手の染織工場の資料室や別の呉服問屋に流れ、
文様を作る側の資料として使われ、戦後になって骨董屋さんに流れたようです。
私が持っている見本帳はほとんど骨董屋さんから購入したものです。
例外的に代々染め物業を営んでいた家から頂いたものもあります。
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日本の染織文化の中で、江戸から明治時代に、木綿の染め物として和更紗が大きな節目を作ったことは確かでしょう。
「木綿に多色染」というお洒落革命のまとまった資料として、これらの見本帳には大きな意味があると思います。
そして、これらの文様は現在でも通用するセンスの良いものも多いので、
これからも文様づくりの参考として生かしてゆきたいものです。
これらの見本帳からは多くのヒントが得られるはずです。
いずれ、これらの見本帳を希望の方に見ていただく機会を作る予定です。
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